【陣屋事件】升田幸三という名人に香車を引いた男

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出典https://blogs.yahoo.co.jp/kkkssst/26188919.html

「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」


昔、家にあった物差しの裏にこのように書いて家出をした少年がいました。

 

 

升田幸三という男


物差しの裏に書いたこの言葉の意味は「名人相手にこちらが香車をおとして(無しで)勝つまで大阪には帰らない」という決意と宣言でした。
この大胆不敵な言葉を書いたのは当時13歳だった升田幸三です。

升田幸三は史上初の三冠王(当時の全タイトル名人、王将、九段を独占)となった伝説の大棋士です。

 

升田は幼少の頃から天才っぷりを発揮し、南禅寺の決戦で有名な坂田三吉からは

 

「木村(義男)を倒せるのはあんただけや」

 

と言われるほどでした。



 

香落ちルール


時は1951年、王将戦
木村義雄王将(名人)への挑戦者となった升田幸三は4勝1敗と木村義雄を破り、王将位を奪取します。


しかし、当時の王将戦は「三番手直りの指し込み七番勝負」という制度を導入していました。


現在のタイトル戦七番勝負では、どちらかが先に4勝したほうが勝ちになり、戦績が4勝0負だろうが4勝2負だろうがそこで終了となりますが、


「三番手直りの指し込み七番勝負」というのは三勝差になった時点で王将のタイトルが移動し、手合が平手から「平香交じり(平手局・香落ち局を交互に行う)」に変わるというものでした。
つまりわかりやすくするとこういうことです

 

  • 3勝差を付けた時点でタイトル奪取もしくは防衛となる
  • 3勝差した場合、そこから第七局まで平香交じり(平手局・香落ち局を交互に行う)を行う


これは名人戦と差別化をしたい王将戦主催社の毎日新聞社の意向でした。
もちろんこの制度の導入には将棋界で様々な議論がありました。
その中でも一番反対したのは升田幸三です。

 

「名人が半香に追い込まれては名人位の権威が問われる」

「王将戦のねらいは、名人の権威を失墜させることにある」

 

しかし時の名人木村義雄は賛成していました。

 

「名人である自分が追い込まれることはない」

 

賛否両論ありながらも王将戦の「三番手直りの指し込み七番勝負」の制度は導入され、そして陣屋事件は起こります。

 

陣屋事件


王将戦で木村義雄相手に4勝1負で王将を奪取した升田幸三ですが、ルールにより3勝差ついたため第六局目は香落ち局が行われます。

 

「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」

 

子供の頃、こう書き残してから20年、本当に名人相手に香車を引くことが実現することに升田は感無量であったといいます。


そしてその対局場となったのが現在でも数多くのタイトル戦が行われている「陣屋」でした。
対局前日、最寄りの駅から徒歩で「陣屋」に着いた升田は玄関のベルを押したが迎えの者が出て来ない。
玄関に立つ升田の前を女中が忙しく行き来するが升田には目もくれない、升田が何度ベルを押しても誰も出て来なかった…。

 

「こういうときの時間は、実際よりうんと長く感じられるもんですが、三十分ばかり玄関に立っとったように思う。いぜん知らん顔で目の前を行き来する女中をみておるうち、私の我慢は限界に達した。自分がおさえきれず、私は陣屋の玄関を出た。」

 

腹の立った升田幸三は別の旅館に引きこもり対局を拒否します。

大先輩である土居市太郎八段、立会人の丸田祐三九段、毎日新聞の記者、最後には陣屋の主が升田をなだめますが、功を奏しません。

そうして対局場である陣屋に升田幸三が出向くことはなく、王将戦第六局は対局中止となります。


これがかの有名な「陣屋事件」と呼ばれるものです。

 

これにより升田幸三は将棋連盟から以下の処分が下されました。

 

・升田八段の行動は不当であったので、1年間の出場停止とする。

・第1期王将戦については、木村名人が指し込まれて王将位が升田八段に移ったはずではあったが、第6局と第7局が行われない以上、七番勝負が完了せずに終わることとなるので、升田八段は最終的に王将位を獲得できず、第1期王将は空位となる。

・3月4日に棋士総会を開いて「陣屋事件」について棋士に説明し、新理事を選任する。


wikipediaより引用

 

 

強がりが雪に転んでまわり見る

 

後日、世論が反発したため、この陣屋事件の解決は当の木村義雄に一任されました。

そして、以下が木村の裁定です。

一、升田八段は今回の対局拒否につき遺憾の意を表する。
二、理事会は行きすぎのあったことにつき遺憾の意を表する。
三、升田八段の会員待遇停止処分(一字不明)十五日をもって解除する。
四、理事の提出した辞表は受理しない。

wikipediaより引用

 

陣屋事件の真相については升田幸三本人からは語られていませんが、大方の見方では、「名人位の権威を守りたかった升田幸三の取った行動」だと考えられています。

「名人に香車を引いて勝つ」とまで宣言し名人を超えたかった少年時代、しかし、その名人を目指している中で、名人への憧れや、尊敬のようなものが升田幸三にも芽生えた。

 

「将棋界最高位の名人に香車を引いて闘うなんて無礼なことはできない」

 

こう考えていたのではないでしょうか


実際、陣屋には玄関にベルなんてなかったそうです。

当時の陣屋の大おかみは対局前日に升田が何かを思案している様子で陣屋の入口前の小道を行ったり来たりしているのを見ており、そうしてそのまま升田は引き返していってしまったと語っています。

 

 後日、「陣屋」に迷惑をかけたことを気にしていた升田は友人と陣屋を訪れます。
そこでこのような俳句を残しています。


「強がりが 雪に転んで まわり見る」

 

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 出典http://mynavi-open.jp/weblog/2014/04/post-2581.html

 現在もこの色紙は陣屋の館内に展示されています。

 

 

名人に香車を引いた男

 

この伝説にはまだ続きがあります。

陣屋事件があった4年後。

升田幸三は当時名人でもあった大山康晴王将に挑戦し、第一局から3連勝し指し込み、つづく第四局で「三番手直りの指し込み七番勝負」のルール通り大山名人相手に香落ちで対局し、なんと勝利しました。

 

「ハラワタがちぎれるほど悔しかった。」

 

当時の大山名人はこの対局についてこう述べています。

 

その後の第六局と七局は升田の健康状態の悪化により実施されていません。

 

以下は升田が著書に記した内容です。

母の意を汲んで、第五局の平手番も勝ち、五連勝したところで、私は病気を理由に、残る二局を棄権した。もし続けて指すとなれば、第六局は再度の香落ち番です。勝敗なんか問うところじゃない。名人であり弟弟子でもある大山君に、これ以上の屈辱を強いるわけにはいかない。

升田幸三

wikipediaより引用

 
「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」


13歳の少年が書き残したこの宣言は途方もないぐらい無謀なことだったと思います。
しかし、本当にやってのけた。
それゆえに升田幸三はこうも呼ばれています。

 

「名人に香車を引いた男」

 

「三番手直りの指し込み七番勝負」のルールが現在ではないので、名人に香車をおとして勝ったことがあるのはこれまでもこれからも升田幸三ただ一人です。

 

晩年、インタビューされた升田幸三はこう語っています。

「喜びがね、日々段々膨れ上がってきた。もう、人は死んで、(自分も)いつ死んでもいいが、何百何千年経ってもね、俺の名前は残るというね。 時が経つほどね、やっぱり負かしといてよかったと。 将棋が始まって私だけだから。名人に駒をおろした人は。」

升田幸三

wikipediaより引用

 

 

名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)

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升田の研究?鬼手と石田流? (将棋連盟文庫)

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好妻好局―夫・升田幸三との40年 (小学館文庫)

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CD-ROM版 升田幸三全局集

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